アラブの名前・アラブの理解



 イラクはいつまでも完全に平穏な状態にならず、大変ですが、今回はアラブ世界の名前についてです。
 アラブ世界全体に共通していることは、やはりイスラム教に関係するコトバや名前が、人の名前によくつけられることです。預言者とおなじ
ムハンマドという名前の人は、アラブのどの国にもわんさかいます。
 もうひとつ、自分の名前と父親の名前をつなげて言う習慣があることです。
 よく「フセイン政権を倒した」などといわれますが、
サダム・フセインのばあい、サダムが本人の名前であり、フセインは名字みたいに聞こえますが、じつは彼の父親の名前です。名字(家の名)を名のる人は少なく、これは儒教圏のわたしたちが、名字(家の名)でばかり呼び合っているのと対照的です。
 とくに名前のなかに
Ibn(イブン)とか、Bin(ビン)がはいったら、「○○の息子だよ」という意味です。有名なのが、オサマ・ビン・ラディン
 もっとも、英語圏の
JhonsonJhonの息子)とか、RobinsonRobertの息子)といった名前も、もとはこうして生まれたものですから、その点は似ています。
 またアラブ人の名前には
al(アル)もよく入ります。これは英語の「the」に相当するもので、人の名前以外でも、アルカーイダアルジャジーラなど、よく耳にします。
 アルカリ、アルコール、アルジェブラ(数学)などのアルのつくのコトバも、自然科学が古代エジプトやメソポタミアに生まれたことのなごりです。アラブ人は文明の発祥地であることに誇りをもっていて、これはアラブを理解する上で重要なことのひとつです。
 ここで、映画「アラビアのロレンス」にも出てくる
ファイサルという人物の名前でご説明しましょう。この人はのちにサウディアラビア国王となり、名君とたたえられながら、1975年におしくもアホな親族に暗殺されてしまった人ですが、その名前は、
          
Faisal Ibn Abdul Aziz Al Saud
です。これは「
サウドという先祖をもつ、アブドゥルアジズの息子のファイサル」ということです。
 
Saudはサウディアラビアの国名にもなっていますが、では父親のAbdul Azizという名前は、どういう意味なのでしょうか?
 昔から日本でも儒教の徳をあらわす、仁、義、忠、孝、礼、信、貞、徳などの字は、よく人の名前にも使われましたが、じつはこれと似たようなことがイスラム社会にもあるのです。
 イスラムでは、アッラー(神)をたたえる99のコトバというのがあり、これが人の名前にもよく使われます。そのひとつが
al-Azizで、「並びなき存在」という意味です。Abdulはしもべ(奴隷)の意味です。
 ようするに
Abdul Azizとは、「神に仕える者」という意味です。
 ついでながら、99のコトバのひとつに、
al-malik(この上なき王者)というコトバがあり、女性形に語尾変化すると、malikaという発音になります。(アラビア語では右から左へ書きますけど)
 ですから、日本にもよくある
マリカという女性の名前は、アラブへ行くと「女王」を連想させ、とてもよいイメージの名前です。アラブではこんな名前を名のると、なにかとトクかもしれません。
 ところで東洋人は、たとえば日本人の氏名と、中国人や韓国人の氏名は、見た目がちがいます。ところがアラブ世界では、イスラム教にかんする名前が多いので、名前の範囲がかぎられ、同名も非常に多く、名前だけではどこの国の人か区別がつきません。
 これはもちろん、アラビア語という言語の共通性もありますが、こうまで人の名前が各国おなじようになるのは、いかにイスラムの教えがアラブ世界全体にふかくしみこんでいるか、ということです。
 そんなわけでわたしたちは、儒教の感覚でアラブをみても、わからないことが多いのです。
 たとえば儒教では、争うことは悪事と思われますが、イスラムでは「正義のために戦って死ぬ者は天国に行く」とされています。また儒教の国では、地位や権力のある人が重視されますが、アラブでは、イスラムの教えに忠実な人が尊敬されます。
 ですから、かつて日本が戦争に負けてアメリカ軍に占領されたあとは、わざわざアメリカ軍を攻撃する人はいませんでしたが、イラクではそうはいきません。
 「イラクのためだ」といいながら、アメリカやその同盟国がのり出しても、現実に空から爆弾が落とされ、町が破壊され、多くの市民が死に、宗教のちがう軍隊が展開すれば、イスラムの世界が踏みにじられたことになり、武器をもってたち上がる人が出てあたりまえです。
 宗教というのは、人間の価値観、人生観、社会観のすべてをつくるもので、外部の者がカンタンに考えてはいけないものです。私たちも、いちど向こうの人たちの目線でものを考えてみることも必要でしょう。それにはまず宗教に目を向けることから、お互いの理解がはじまるのです。
 おなじことは、日本の宗教でもいえるでしょう。日本の宗教だってほとんどは外来のもので、カンタンにわかるものではありません。
 神社仏閣をただ「観光地」のように思い、修行や信仰の証(あかし)である仏像や仏画を「美術品」だと決めつけ、教会を「結婚式場」みたいなイメージでみていても、宗教にはふれられません。それがどういう教えなのか、と関心をもつことの延長に、世界の平和共存の道がみつかるのではないでしょうか。