ガイコツと名のった人の主張



 明治・大正・昭和の3代にわたって活躍した外骨(がいこつ)は、日本の風俗史、文化史にめっぽうくわしく、大阪で「滑稽新聞」を発行して政治の裏面や社会風俗について書きまくり、大ウケして名をあげました。
 この人の本名は宮武亀四郎ですが、亀…甲羅…骨、という連想で外骨と名のり、「姓というものは排他思想、差別のもとになるからいらない」と主張して、自分のことをただ外骨と呼ばせました。これが有名な「外骨の廃姓宣言」です。
 もちろん「姓をすてた」と言っても、実際にその人の名字がなくなるわけではありませんが、これは賛否は別として、ひとつの問題提起ではあります。
 日本は儒教の国で、むかしから姓(名字)というのは、イエ制度やお墓の制度とベッタリくっついたものでした。
 人はすべて「どのイエの、どんな立場の人間か」というふうにとらえられ、名前も太郎、次郎、三郎などと名づけて、兄弟関係が世間にわかるようにしていました。イエのことが不透明だと、「氏素性も知れない」などと、のら犬みたいに思われたのです。古くは親と同じ世界で生きることが義務づけられ、そうすることは親孝行で立派なことだ、とながらく思われてきました。
 こういう社会は、わかりやすいとはいえます。所属先、背後関係がまったくわからなければ、よほどの能力がないかぎり、自分の目で人を判断するなんてむつかしいことです。イエで見るなら小学生でもカンタンです。
 でもそれだけが定着すると、ええとこのお坊ちゃま、お嬢ちゃまばかり注目され、信用され、個人の努力、能力、適性、考え方、創造性といったものは二の次になります。それはイエによる差別につながって、本当にすぐれた人材を埋もれさすことになり、社会全体としては機能がマヒしてきます。
 姓とは、このように私たちの生き方そのもの、社会のあり方そのものにかかわるものです。いまも夫婦別姓の議論がさかんですが、こういう問題は(トンチンカンな誤解もありますが)、人それぞれの育ちかたや人生体験によってさまざまな意見があふれ出てきて、世論もまとまりにくいのです。
 なお廃姓宣言こそ出していませんが、今の世にもガイコツと同じことをやっている有名人がいます。
 たとえばオリックスからマリナーズに移籍したイチロー選手。はじめから鈴木という姓は名のらず、名前だけを選手登録して打ちまくっています。
 また「天界」「OASIS」の名曲でデビューした、シンセサイザー奏者であり作曲家である喜多郎もそうで、高橋という姓は名のらず、いまや「世界のキタロー」と評価されています。
 奇遇なことに、お二人とも結果として、個人主義の国、しかもおたがいを名字でなく個人の名前で呼びあうアメリカを舞台に活動しました。そしてもちろん「○○家の人」としてでなく、その人個人が喝采をあびているのです。
 たしかに本当に能力のある天才は、イエ制度とは無縁なようです。