女の名をつけた、と父親を殺害 |
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平成12(2000)年の秋、シドニーオリンピックにかき消されて大きな話題になりませんでしたが、「オレに女の名をつけた」といって息子が父親を殺害する事件がおきました。
犯人はどんなアンチャンかと思いきや、50過ぎのおじちゃんで、いつまでもそんなことをうらんで老いた父親を殺害するとは、何とも大人げない最低の話です。
おじちゃんの名は「鼎」。カナエと読み、三本足の銅器を意味します。そしてたしかにカナエは圧倒的に女性の名です。 彼は子供のときから学校の先生に、「どう読むんだ? わかりにくい名前だな」と言われたり、またあちこちで女性とまちがわれ、笑われたりするので、自分でもほとほとイヤになり、ある時期から要(かなめ)と名のりました。 しかしカナメだって男女両方にある名でまぎらわしく、社会生活では混乱します。どうせなられっきとした男性の名を名のればよかったのに、自分だってこんな中途半端なことをしているのです。 ただ、この事件で裁判所やマスコミは、もっぱら息子の非難しかしませんでした。つまり、
というわけです。たしかに文字の意味はそうですが、でもそんなことは事件と関係のないことです。事件の原因である男女さかさまの名前をほめている場合ではありません。
名前、とくに名前が関係した事件をみるときは、もっと人間の「心」というものを話の中心にもってきてほしいものです。 男女さかさまの名前をつけられるとどうなるか、それは名前をつけた親には案外ピンとこないことも多いのです(だからやるのでしょうが)。 男女逆のカタログが送られたり、団体旅行で男女逆の部屋割りにされたりと、くだらない混乱ばかりおき、それは本人がイヤなだけでなく、社会で多くの人に迷惑をかけます。 しかし一方、いまの日本には「男女一緒くた」の風潮があり、男女さかさまの名前を「そんなことくらい…」と平気でつける人がいるのも事実です。 しかし、「ボクは女性用のカタログでモノを買う」「あたしは男性の部屋で泊まります」と言い切れる人は別として、男女さかさまの名前をつけられれば、ときに情けない思いもしたり、人によっては親から侮辱されたような感覚が芽生えることもあります。そういうケースは、命名の専門家からみますと心理的な虐待といえます。
犯人の父親も、そういうことをしたのです。さらに鼎の字も読めない学校の先生が、罪のない子供に文句を言ったのです。
これらの事実をふまえた上で、「この親にしてこの子あり」「この先生にしてこの生徒あり」と言えば、やや筋のとおった判決にはなるでしょう。 |
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