福沢諭吉がとりのぞこうとしたもの




 1万円札でおなじみの福沢諭吉は、どういう名前なのでしょうか。?
 
の字は、言(刃物+口=言いきる)、屋根、丸木船、ナイフを合わせたものです。ナイフで中をとりのぞいて丸木船をつくるように、コトバで人のまちがった考えをとりのぞくことです。の字はフタをした容器をあらわします。
 そうなると
諭吉とは、容器の中身をとりのぞく、という意味で、まさに生きざまをあらわす、象徴(シンボル)名前といえます。
 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず…」という有名な言葉ではじまる「学問のすすめ」という本は、
福沢諭吉が、私たちの先入観をこわすために書いたような本です。
 学問なんていうと、むつかしい読書をイメージしますが、この本では、「
役にもたたないむつかしい本を読んでも、活用できなければ無学と同じだ。必要なのは実学なのだ」と言っています。
 とても明治のはじめに書かれたとは思えない新鮮な本で、ごくおおまかに今風のコトバでいいかえてみますと、たとえばこんなことが書かれています。

とにかく官僚の数は多すぎる。業務ばかりふやして、有能な人間につまらん仕事をさせているのはもったいないことだ。官僚は必要のない事業をやっては無駄な金を使い、増税をし、国のために働いているつもりでいる。国のために働くとは、悪人を罰し、善人の生活を守ることで、それはあたりまえの職務であり、そのために税金をはらっているのだ。官僚だからといってふんぞりかえるのは、人間が平等であることを知らず、貧富や立場のちがいを悪用していることからくるのである。
多くの職場でみられることだが、部下は仕事全体に関心をもたず、すぐ上の者の顔色をみることばかりうまく、忠義なフリをして、お金をごまかしたり、よその人からリベートを取ったりする。使用者は「人は信用できない」となげくが、これらはすべて、大人どうしのきちんとした労務の取りきめをせず、家庭の親子関係みたいな(親分子分)感覚を、職場にもちこむことからおきるのである。

 私たちは、いつ、どこででも、まわりの人とうまくやっていかなければならないと思っていますし、それが私たちの常識です。名づけのときも、「わが子はだれにでも好かれる人間になってほしい」と言われるかたも多いですが、わが子がいじめられないよう、人間関係で泣かないよう願うのは、親としてあたりまえのことです。
 でも
福沢諭吉はつぎのようにも忠告するのです。

ただ人に気づかってばかりいると、それが習い性となって改められなくなる。国民1人1人に独立心があってこそ、国が独立できるので、ただ人に依存し、独立した精神のない者は、本気で国を思うことはなく、外国人とも対等にわたりあえず、周囲につられて悪事にかかわりやすい。人間は、周囲にしたがって悪習にそまることがあってはならず、天の正道にしたがうべきなのである。

 たしかに私たちは、協調性も大切ですが、まわりにつられない、ということはその何倍もむつかしいことです。いじめも非行も、まわりにつられてやっていることが多く、企業犯罪や官庁の不祥事も、職場でみんなが仲間意識でやっていくなかでおきているもので、1人1人にそれほど「犯罪をしでかした」という罪の意識はありません。
 ウラがえせば、私たちが本気で世の中のためを思い、正しい、まちがいを口にすれば、だれかを敵にまわし、だれかにニクまれ、傷だらけになる、ということもあるわけです。考えてみりゃ、お釈迦さまやキリストだって敵はいたので、だれにでも好かれたわけではありません。「人に好かれるのがいいこと」というのも、ひょっとすると私たちの先入観なのかもしれません。
 それはともかく、
福沢諭吉ののこした多くの言葉が1世紀以上たっても新鮮さをうしなわないというのは、ご当人も予想しなかったことでしょうが、なんとも悲しいことではあります。