神戸の少年Aの名づけ


 神戸の少年Aが少年院を仮退院し、ちょっとさわがれています。
 彼が犯行声明に書いた「酒鬼薔薇聖斗」という名前と、犯罪とのつながりについては、「名前学」(全日出版)でくわしく書きましたので、ここでは彼の本名についてのお話です。
 といっても彼の本名は非公開ですし、たとえ同じ氏名でも人間は一人一人ちがいますから、彼の名前が悪い、という話ではありません。名前より大切なのは名づけの姿勢だ、というのが専門家の見方ですが、彼の場合も問題なのは、名前そのものより「名づけ」のほうです。
 彼の母親は手記のなかで、「
真実を見極める子に育つように…」との願いをこめて名前をつけたと書いています。じつは名づけのとき、こういうことをおっしゃる人はめずらしいのです。
 もっとも「やさしい子になってほしい…」というふうに、願いをこめる名づけというのは、よくあります。こうした願いをこめる名づけは、人に説明しやすいので、世間ではよくほめられますが、ただプロが見て無条件によい名づけともいえないのです。
 それくらいならまあいいとしても、それが真実を見極める子に」などという極端なところまで走りますと、私たち現代人の悲しいロボットのような姿を感じさせられます。
 それは、私たちがいかに心(感性)がにぶっているか、ということです。こんな話になったら最後、私たち、他人のことなど言えなくなるのですが、ここであえてそのテーマにふみこんでみます。
 たとえば私たちは、こんなことをしゃべっていないでしょうか?
   「
自由時間なのに、なんで勉強なんかするの?
   「
個性を発揮する方法を、教えてほしいんです
   「
人間、しんぼうだ! 何度言ったらわかるんだ!
 文章でよめばフキ出すような言葉ですが、これくらいは私たち、平気で言ったり聞いたりしています。つまり私たちは、かくも口ばかりよく動き、心(感性)が鈍いのです。
 ところが文章になっても、どこがおかしいのか気がつきにくい言葉もあるのがやっかいです。
   「
人にやさしくなれるように、よく考えなさい
   「
泣いていないで、話したらいいじゃないの
 やさしさを「考えろ」などと言われ、泣いていたいときに「しゃべれ」と言われる。こんなふうに、自然な心の動きをひっかきまわされながら生きていると、人はいつのまにか感性、感覚がおかしくなってしまいます。そのあげく、極端なはなし、
   「
彼女はボクの愛を無視します、ムカつきます
などとヘンなことを言うようになると、かなり重症で、ストーカー犯罪にもつながります。
 「
真実を見極める…」という言葉も、だれも反論しようがない、抽象的なリッパな言葉です。でも、わが子をさずかった喜びのさなかで、なんでわざわざそんなリッパなことを言わなければならないのでしょうか。
 抽象的なリッパな言葉を言うのは耳学問があればカンタンです。でもそれって真実ですか?
 むつかしいのは、たったひと言でも、自分自身の言葉をハキ出すことです。これはできそうで、なかなかできるものではありません。
 少年Aの親も、ありのままの自分としての心(感性)が動きにくかったからこそ、こんな卒業式の訓辞みたいな言葉が出てきたのでしょう。これは他人事ではなく、私たち現代人が共通にかかえているテーマです。
 とかく世間では、リッパなことをしゃべればほめられますが、親がタテマエ、リクツに支配され、心(感性)が鈍ければ、それがそのままお子さんに伝わってしまいます。少年Aも、犯行声明のなかで書いています。
 「
もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に
  放置するなどという行動はとらないであろう

 ようするに、自分はありのままの自分ではない、と言っているのです。たしかに、生まれつき残酷で非情な人間というのはいません。環境によって心(感性)が鈍ってしまうのです。
 名づけは、親子関係のスタートであり、そこにリッパなリクツや説明などいらないのです。大切なのは心(感性)がはたらいているかどうかです。それによって、同姓同名の人でも、ちがう人生になるのです。
 ただし、犯罪をおかし、被害者がでてしまったら、環境の話は手おくれです。あとはどのように(社会復帰するかではなく)責任をとるか、だけがテーマです。