安全は存在しない


 福知山線の列車事故に遭われたかたがたに心よりおくやみとお見舞いを申しあげます。今回、この事故にかこつけて名前の話をするのは大変気がひけますが、名前の研究家として、ぜひ述べておきたいことがあります。
 (ちなみにある理由で、運転士のお名前につきましては封印といたします。このかたのお名前については、いかなる場所でも、永久に解説はいたしません。今回のテーマは、安全という言葉についてです)
 事故がおきれば「安全こそ第一だ」と叫ばれますが、これは私たち市民としては当然言いたいことです。ただ、事故をおこした当事者が「これからは安全にとりくみます」とだけ言うのは、私たち市民と同じことを言いすぎる、という感じはします。
 JRのかたがたは、安全とは、いったい何につけられた名前なのか、お考えになったことはあるでしょうか?
 じつは安全とは、存在しないことにつけられた名前なのです。
 そういう名前は、世の中にたくさんあります。たとえば正常(=異常がみられない)とか、平和(=戦争や内乱がない)という言葉もそうです。もっとわかりやすいのが、無目的、無感動といった、無のつく言葉でしょう。
 安全もそうです。それ自体は存在しません。存在するのは、反対のもの(事件や事故)で、それがたまたま無い状態、生じにくい状態を安全と呼んでいるだけです。
 しかし、存在しないことをあらわす言葉をやたらにしゃべりますと、いつのまにかそれが「ある」ような錯覚がおきて、意識が逆転してくるのです。
 そしてたとえば、ありもしない安全を「ある」ように錯覚しますと、反対の実在するもの(事件や事故)を忘れやすくなるのです。これを昔の人は「
災難は忘れたころにやってくる」と表現しました。
 鉄道でいえば、私たち一般の乗客はふだんはただ安全だと思って乗っています。ですから電車が遅れれば「遅刻してしまう」「ついてない」と不満に思うだけで、「おかげで命が助かった」と喜んだりしません。そして事故にあって助かった時だけ「運がいい」と思い、「やはり時間より安全が大事だ」と身にしみます。事故がおきなければ、「運がいい」とは思わないのです。
 このように私たちは、事故がおきたときと、ふだんでは、意識がさかさまになっているわけですが、お金をはらっている乗客はそれがあたりまえで、それでいいのです。
 しかし、お金をとっているがわの鉄道マンがそれと同じでは困ります。
 JR西日本は「安全にとりくみます」とだけしか言いません。とくに権限のある幹部ほど現場からはなれていますから、「今日、事故がおきるかもしれない」「ああ、今日は無事でよかった」という緊張感はありません。だから安全という言葉しか思いつかないのでしょう。
 でもそれは、むしろこう言ったほうが本物だと思います。
 「私たちは、いつ事故がおきるかわからないと、毎日おびえながら仕事をしています」
 こんなことを言われたら、乗客はもっと不安になってしまうでしょうが、名前の研究家からみますと、こう言ってくれたほうが「さすがにプロだ」と尊敬できるのです。このように、事故ととなり合わせで生き、気をぬけないことこそが、事故をふせぐのです。プロは、私たち一般人の意識と逆でなければいけないのです。
 安全、安全と、私たちと同じことをしゃべるのではなく、この世に安全など存在しない、ということを肝に銘じて忘れないでほしいものです。