幼女連続誘拐殺人   宮崎勤



 4人の幼女がつぎつぎと誘拐され、殺害されてから17年以上がたって、やっと犯人の宮崎勤の死刑が確定しました。彼の名前については著書「名前学」の中で解説しましたが、今、似たような事件がますますふえていますので、ここでもう一度とりあげます。
 名前の研究家からみますと、宮崎勤を特殊な人間と思うのはマチガイです。彼はたしかに重症ですが、大事なことは、彼を分析することで、ほかの予備軍の姿をとらえることです。一見ふつうにみえる人たちの中に予備軍がいるからこそ、こうした事件はアトを絶たないのです。
 はじめにおことわりしますが、世の中には、男女まちがえる名前を平気でつけたり、「男の子らしい名前、女の子らしい名前は性の押しつけだ」などと言って歩く人もいますが、
名前の専門家はそういうことには賛成しません。それはプロからみますと古い発想で、人間心理にうとく、乱暴なことなのです。
 これからは胎教や生育環境が重んじられる「心」の時代です。世界の常識で考えても、心理分析に照らしても、男女のわかる名前をつけることが健全であり、逆に中性あつかいされ、男女まちがえる名前をつけられるお子さんは、ときに精神的虐待を感じたり、情緒障害につながるおそれもある、とプロは考えます。
 人の名前というのは、一般に思われているのとは比較にならず、深い意味をもつものです。宮崎勤についても、そのようなつもりでみていただきたいのです。

 まずの字ですが、太い腕(力を表す)と、動物の皮と、火と、土を描いたもので、「動物の皮を大地に広げて火で乾かすように、汗をしぼり出して力仕事をする」という意味です。
 彼が逮捕されたあと、彼の父親は車で放浪したすえ、高い橋の上から深い谷へと身を投げて死にました。その父親はおそらく「まじめに働く人間になってほしい」と願ってこの名前をつけたのでしょうが、本人は、勤務態度が悪くて印刷会社をクビになり、家で遊んでいたのです。

 「本人にこうなってほしいから…」という名づけは、じつはきわどい名づけなのです。名前は直接本人に伝わるわけではないのです。ときに正反対の結果になることもあり、これが隠蔽(カモフラージ)名前です。
 しかも宮崎勤の場合にかぎっては、彼のしでかした犯罪をあらわす象徴(シンボル)名前にもなっています。つまり二つにまたがる複合名前です。の字をよくごらんください。「力、皮、土、火」の組み合わせですが、皮は動物の死体でもありますから、この字は「力、死体、土、火」だともいえます。
 彼は幼女を力づくで死体にし、3人を山地に捨て、1人を火で焼いたのです。
 なぜこういう複合名前が世の中に存在するのか、関心のあるかたはぜひお考えください。これは心理的にしか解けないはずです。

 では彼の犯罪はどのようにおきたのか、それを解くカギが、彼が名のった氏名です。彼は、幼女の遺体を焼いた灰とともに今田勇子と名のる手紙を両親に送りつけました。これは漫画の主人公の名だったのですが、その氏名をまねたことに深い意味があります。
 自分でつくって使う氏名には、名字にも名前にも、本人も気づかない内面が表現されます。オウムの麻原彰晃も、神戸の酒鬼薔薇聖斗もみなそうです。ただし今田勇子の氏名を解くのはカンタンではありません。
 今の字は「過去と未来の接点」を意味し、は「広い牧草地」をあらわします。つまりこれらは、時間と空間を象徴する字なのです。
 はもともとは、の字とホコを合わせた字です。ではは何をあらわすのでしょうか?
 
の字を解読した人はおそらく世界中にいませんので、少数意見としてお聞きいただきたいのですが、これは牧場の出入り口を描いたものです。柱間隔の広い牧場の出入り口は、絵のようにナナメの材料でつながないと、トビラが重みでゆがんでしまうのです。
 
の字は、動物を出すことから「飛び出す」「使う」の意味になりました。これから(とおりぬける)、(足をはねておどる)、(水をくみ出すオケ)の字もつくられています。の字は、ホコをもって飛び出すことです。
 そうすると今、田、勇の字の組み合わせは、時間と空間から飛び出すことを意味します。しかも
がつけば女性の名です。彼の場合はこの氏名を名のることで、「時間と空間を見うしなった女性です」と自己紹介をしたことになります。この場合、が心的障害を、今、田、勇の3文字が症状をあらわしています。
 彼はおそらく一人の男性としてみられ、存在しているという実感がないのです。これが知られざる彼の内面でしょう。彼の実家には家族全員が一緒にすわれる数のイスがなく、彼は離れで一人で暮らし、そして大人の女性と接することができず、幼女にばかり接近したのです。
 これは仮説になるかもしれませんが、多感な子供時代に、男とみなされない、女とみなされない、あるいは人数に入れられていない、という空気にさらされますと、人間だれしも、「今、ここに存在する現実の自分」という実感がうすらいできます。
 これが悪化すると、時間、空間そのものの感覚がうすらぎ、「将来のため」「世の中のため」という発想を失い、目の前のことだけに反応するようになります。もっと重症になると自分の存在感をまったく失い、人の命に対する感覚も失い、殺人をやらかす人もでるわけです。
 彼は公判で年齢を聞かれて、「数えでいくつ」「満でいくつ」の意味がわからなかったそうですし、「免許証を早く返してほしい」と言って、明日にでもまた運転をするようなつもりでいたといいます。つまり時間、空間の感覚が完全にぶっこわれていたのです。自分のやった残忍な犯行も、「夢の中でやったようだ」と言い、死刑判決にも、「みなでボクを殺そうとしている」などと言い、まるっきり現実感覚がありません。
 
そして問題は、こういう存在感のマヒは宮崎勤だけにおきているのではない、ということです。症状の重い軽いはあっても、予備軍はほかにもいるのであり、そういうグレーゾーンが存在するかぎり、こうした事件は起きつづけます。
 これは私たち日本人すべてが、本当にまじめに考えなおさなければいけないことです。子供を中性あつかいし、座席を取りあうような競争ばかりさせるのは、感性・情緒がゆがめられやすくなるだけで、それでいじめやストーカーがへったり、幼児虐待や幼児誘拐がへったり、出生数がふえたりはしません。もうそこから脱皮しないと何も解決しないでしょう。
 これは名づけともウラオモテのことです。名づけの傾向は、社会の姿のあらわれであることが多いのです。無抵抗な赤ん坊に乱暴な名づけをする人がふえる社会では、無抵抗な子供に乱暴なことをする犯罪がふえてもフシギではないのです。
 どうか世の中すべてに、豊かな感性、人のぬくもりを感じさせる名づけが満ちあふれてほしいものです。

              
参考図書:「宮崎勤裁判 上・中・下」(佐木隆三・朝日新聞社)
                   「宮崎勤事件 夢の中」(小笠原和彦・現代人文社)