教育改革は本当にできるか 山県有朋 |
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いま学校教育の制度の改革がさわがれていますが、あまり根本的な問題まではふれられている気配はありません。 学校は私たちが子供時代をすごした場所で、だれしもいろいろな思い出があり、理想像があります。しかし、いじめの事件などのたびに校長や教育委員会が会見で「2度とあってはならない」と何度もくりかえすのはうんざりです。いったいなぜ、このように教育の世界に型どおりのマニュアル人間が多いのかといえば、それは教育が官庁の「委託業務」だからでしょう。 委託というのは、名づけに関することでは、戸籍事務がそうです。あれは法務省の仕事ですが、じっさいは法務省から委託された地方の役所が代行しています。 学校も同じで、全国の生徒が文部科学省に通うことはできませんから、委託をうけた県や市町村が代行しているわけです。私たちは学校を「教育現場」などと呼んで、つい特別な目で見てしまいますが、公立の学校はあくまで「お役所」です。 役所は通達、マニュアルで管理される所で、個人プレーは許されません。教師の不祥事があっても、校長は「勤務はまじめだった」と発表するように決められており、「あいつには手こずっていた」「とうとうやりましたか」などと正直に言ったら首が飛んで失業です。 この学校制度をふくむ全国的な行政システムは、はるかむかし、明治の元勲、山県有朋(やまがたありとも)によって整備、完成されました。 彼の本名は狂介というヘンな名ですが、昔は魔よけのためにわざと縁起の悪い字を名前に入れることもありましたから、そのたぐいかもしれません。維新ののちは有朋と名のり、歴史の本もすべて有朋になっています。
つまり有朋という名前は「仲間をかこう」という意味になり、まさに組織を整備し、派閥を固めながら生きた彼の生涯とイコールのシンボル名前になっています。 明治のはじめは、維新でハリキって働いた薩摩、長州、土佐の出身者が政府や官庁の主要ポストをしめ、いわゆる江戸時代の「藩」のなごりみたいな藩閥政治がおこなわれていました。長州生まれの山県有朋も組織や派閥を作ることが大好きでした。 彼はヨーロッパでの軍隊の制度の視察をもとに、参謀本部を設置し、軍人勅諭もつくりました。くわしいことは省きますが、現役武官制をつくって軍の発言力を強くするなど、彼は軍をこよなく愛し、目にいれても痛くなく、軍ためなら火の中、水の中、という人でした。そんなわけで、とくに陸軍と長州閥はおしどり夫婦みたいな関係でした。 その有朋が市町村制をととのえ、教育勅語の作成にもかかわったのですから、軍隊と、日本の行政や教育の制度は、同じ人間がつくったわけです。有朋の名前は「二つのものを含む」の意味でもあります。そんなわけで学校と軍隊は、良くも悪くも、似たような発想でつくられたとしてもフシギではありません。 これが良かった面もあります。明治以後に日本が短期間で急速に近代化され、世界の主要国のひとつにのしあがった理由は、何といっても教育の普及の早さです。なにせ村役場や郵便局と同じスピードで学校が作られたのです。これが日本の発展におそるべき力を発揮しました。 そしてひと昔まえまでは、学校は軍隊のような雰囲気があり、服装も規則も似ていました。女子学生のセーラー服ですら、もとはイギリス海軍の軍服です。軍隊が戦場で戦える兵士をつくるように、学校は社会で働ける人間をつくる場所で、生徒もみなリッパな社会人になりたいという気持ちで努力し、親も先生がわが子をきびしく教育してくれることを望みました。 これが敗戦によってガラリと変わりました。日本を占領したアメリカ軍によって、学校は社会人の養成ということより、自由主義、個人主義を教える場に変えられました。戦後の学校教育にも、またもや外国の軍隊がからんだのです。それがよい結果に出ればよかったのですが、とくに目に見えてよいことというのはみられません。いまの学校はなぜか軍隊の悪い面が似ていて、閉鎖的で内部でいじめが横行しています。 自由主義、個人主義といっても、それは一人一人の言動にきちんと責任をとらせるル−ルがあって成り立つことで、そのルールがなければ、ただモラルのない自分中心の人間をふやして卒業させることになり、社会全体が荒れていきます。 その影響はいま学校自体にもハネかえっていて、わがままが服を着たような親たちに教育現場が踏み荒らされています。それはモトはといえば彼らの教育に失敗し、社会人とは呼べないような動物にしてしまったということです。 もし本気で教育改革をするなら、まず言動に責任をとらせるルールづくりが必要です。それは日本の社会そのものを根底から作りなおすことになるのですが、本当にそんなことできるでしょうか? 参考図書:「戦後教育で失われたもの」(森口朗・新潮社) |
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