なぜ女性が機械にみえたか  柳沢伯夫



 柳沢伯夫(はくお)厚生労働大臣の「女性は子を産む機械」という発言でかなり政局が混乱しました。こんな発言をすればもちろん非難はされるでしょうが、ただこれを「女性蔑視」「少子化を担当する大臣に不適任」というふうに、男女の話、人事の話にしてしまうと、大事なことを見のがしてしまうかもしれません。
 名づけの専門家からみますと、この騒動のキーワードは「投映」です。投映(projection)とは、心理にかんする言葉で、自分の姿が鏡のように人に映ることです。
 たとえば、他人がのろまに見えてイライラし、「早くしてくれっ」とせかすクセのある人は、その人自身ものんびりしていて実行が遅い、というようなことです。
 「人のふり見てわがふりなおせ」と昔から言いますが、私たちは、自分で気づかない、みとめたくない自分の姿が、他人に映ることはよくあります。他人の性格がイヤだったり、腹がたったとしても、それは自分自身の姿でもあることが多いということです。
 まず
伯夫という名についてですが、彼の場合には、ひとつ想像できることがあります。
 
の字はニンベンにですが、とは何でしょうか?の字を解読した人はいませんので少数意見になりますが、の最古の字は鍾乳洞のなかにたまった石灰をあらわしています。
 鍾乳洞では、白い石灰がしたたり落ち、下につもって動かなくなります。そして上のつららと、下の石灰のかたまりがだんだんと近づきます。
 ですからの字は「しろい」のほか、「近づく」「たまる」「とどまる」などの意味で使われてきました。近づくことをと書き、たくさんの荷物をのせる船が、船がとどまるのが、動かない犬がです。そして石灰がしたたり落ちるようなリズムで手をたたくのがで、白い石灰が落ちる音が洞窟のなかで鐘のように響くから「鍾乳洞」というわけです。
 ですから
とは「年や経験をたくわえた人」で、ずばり「高齢者」のことです。
 名づけで「高齢者」の意味の字を使うのは、良い悪いはともかく、ちょっと変わった発想で、「早く大人になれ、立派な社会人になれ」という強いメッセージを感じさせます。つまり「未完成のものに価値はない」という感覚が家に流れていた可能性があります。
 でも人間は、純真無垢な赤ん坊、無邪気でわがままな幼児、反抗して手をやかせる少年少女、という積み重ねがあって大人になるのです。ある時期は徹底した子供らしさが必要であり、そこで人間としての豊かな感性、想像力、夢も育つのです。それを否定したら、競争やテクニックだけの、うるおいのないデジタル人生になってしまいます。
 
柳沢大臣も、東大という学歴や、官庁での地位を得るためには、人一倍の努力はしたでしょうし、官僚としての処世術は身につけていたはずです。
 ただそれが自分の夢や感性から出たものではなく、他人から与えられた価値観、基準に自販機のように応答してきた努力であったなら、失礼ながら一種のロボットのような生き方でもあったことになります。つまり他人を機械にたとえたのは、じつは自分の姿だったのです。
 ただそうは言っても、「投映」というのは私たちだれにでもおきています。
 私たちもある部分は、機械のように社会に適応しながら働かないと生きられません。世の多くの親は、
柳沢発言には怒っても、自分の子には柳沢大臣のような学校秀才、模範生、エリートという生き方を求め、子供自身の発想や適性をつい無視して、世間的な規格で計ってしまいます。その意味ではみなが同じ方向を向いており、柳沢大臣だけが特殊な人ではありません。
 
柳沢大臣を非難するほかの政治家たちも、やはり少子化問題、子育て支援にとりくまなかった自分たちの姿が、鏡のように彼に映って、不快に感じているのです。
 そう考えますと、一人の大臣のひとつの発言がどうこうではなく、子育てをする人たち、したい人たちがカヤの外におかれ、子育てに興味のない人たち同士で言い争っていること自体がさびしい話です。
 いまの日本の社会には「子育ては世の中で非常に大切な仕事だ」という認識がなく、社会活動をする女性ばかりがスポットをあび、「女性は家事や育児から解放されてもっと社会参画するべきだ」と少子化をあおるような声ばかりが盛んです。婦人会館や婦人センターのような建物ばかりどんどん作られますが、産院、保育園、託児所、小児科医の不足はますます深刻で、「出産難民」「育児難民」がふえています。
 子育てをしようとする女性は、評価も支援もなくほったらかされ、仕事との板バサミで困っています。柳沢大臣ひとりを非難するのではなく、もっと子育ての大切さをみなが認識して、仕事と子育てを両立できる社会にすることこそが、待ったなしの急務であるはずです。