特攻の母は父を知らずに育った 鳥浜トメ |
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名づけ相談では、「子供はやさしい人間になってほしい」とか、また占いのお好きなかたからは「運のいい名前にしたい」とよく言われます。もちろん名前で運や性格がきまるわけでもありませんが、親の気持ちとしては自然であたりまえでしょう。 ただじつは、そういう言葉を何百回、何千回も聞いてきた命名の専門家は、「人はただ運がよければいいのだろうか?運がいいだけの人が、本当にやさしくなれるだろうか?」というジレンマを感じることもあります。「私はなんて不運なのか」と悲しみ、苦労をすることで人は成長し、粘り強さも出ます。そこに本当のやさしさも生まれるのではないか、とも思えるのです。 最近、「特攻の母」として語りつがれてきた鹿児島県の鳥浜トメさんの物語が、「俺は、君のためにこそ死ににいく」というタイトルで映画化されました。このトメさんという名前は、それこそむかしよくあった留め名です。 留め名とは、「子供はもう止めたいよ」という気持ちをあらわした名前です。むかしは子だくさんの家が多かったので、末子、留子、留吉などという、いかにも「子供はもうたくさんだ」といわんばかりの名前がよくありました。最近はさすがにありませんが、留め名は本人の心を傷つけるおそれがあり、よい名づけとはいえません。人はだれしもみな同じように、誕生を歓迎されなければならないはずです。 ちなみにいま、「国籍をもらえない子」「離婚後300日以内の出産」の問題がおきています。これらも大人の勝手な考え、ふるまいで子供が犠牲になっている例だと思います。どこでどんな生まれ方をしようが子供に罪はないのですから、何をおいてもまず子供を中心に考える、ということが大切ではないでしょうか。 鳥浜トメさんも、未亡人だった母親が、ある実業家の家で女中さんをしていたとき、妻子あるその実業家との間にできた子供です。もちろん世間で正式にみとめられることではなく、「できれば生むのを止めたい」という親の思いがあったのは当然で、それが名前にも表現されたのでしょう。まさにはじめから不運な生まれだったのです。 トメさんは母親の手ひとつで貧乏のどん底で育てられ、小学校にも行けず、8才でよその家の子守りの手伝いに入り、15才で警察署長の家の女中さんになりました。署長の娘たちからきつくあたられましたが、母親に仕送りをするために必死に耐えました。18才で、ある旅館の女中さんになってから、雇い主が小遣いや着物をくれるようになり、「人間は他人にこうしなければならない」と、はじめて人のやさしさを学んだといいます。 その後、あるバスの運転手と恋愛関係になり、その彼に字を教えてもらって勉強もしましたが、トメさんは生まれが生まれなので、相手の親戚がこぞって結婚に反対し、婚姻届も出せないまま結婚生活を始めました。 しかしトメさんは、夫の給料をすべて夫の兄弟の学費にさし出し、自分たちの生活費は自分で働いてかせぎましたので、何年かのちにやっと親戚から正式の妻とみとめられました。昔の人のこうした苦労というのは、いまの娯楽づけの時代には想像を絶するものです。 その後、鹿児島の知覧の町で食堂を経営するまでになり、生活も安定してきました。トメさんは着物の似合う美人で、そのころたくさんの着物を買いました。 しかし昭和15年以後、のどかな知覧の町は一変し、飛行場がつくられ、食堂は軍用食堂に指定されます。昭和20年になってその飛行場から、平均21才(最年少17才)の若者たちが何百人も、アメリカの軍艦への体当たりを命じられ、250キロの爆弾といっしょに飛び立ちました。 トメさんは、死を目前にした特攻隊員たちのためにいつもけんめいに材料を買い集め、お金もとらずに料理を食べさせ、そのために持っていた着物はほとんど売りはらいました。隊員たちは特攻について家族に知らせてはならず、家族と連絡をとることも禁止され、食堂の机で家族あての遺書を書くのがやっとでした。トメさんは隊員たちに実の母親のように接し、いろいろなことを語り合いました。出撃を前にした隊員たちはトメさんのつくった、この世で最後の手料理を喜んで食べましたが、トメさんはいつもそのあとで「あの子たちは明日死ぬんだよ」と自分の部屋で泣いていたといいます。 この世には、生物的な親子だけでなく、そういう極限の状況のなかで生まれる親子関係というのもあります。トメさんは不遇な育ちだったからこそ、他人にも本当の母親になれたのだと思います。 そんなトメさんを、「隊員にぜいたくなものを食わした」といって、憲兵が連行したことがあります。隊員たちは「ぼくらは明日死ぬから何でもできる」と言って憲兵隊に押しかけ、鬼の憲兵たちにつめよって釈放させました。その隊員たちはトメさんとふたたび会うことなく、翌朝、南の洋上で散りました。 さきの警察署長の娘たちや、この憲兵たちのような人種は、いつの世にもいますが、彼らだって根っからバカで冷たい人間だったわけでなく、要するに運よく生きて苦労知らずだったのでしょう。苦労せずに人間として成長するのはむつかしいものです。私たちは運がよくてものごとがうまくいけば、ついわがままになりやすいですし、わがままとやさしさは逆比例します。 戦後まで運よく生き残った日本人のなかには、手のひらをかえし、戦死した犠牲者たちを「軍国主義の協力者」とか「バカな戦争で犬死にした」とあざける人もふえました。でもトメさんは遺骨もない隊員たちのため、空き地に棒を立て、「これはあの子たちの墓だ」と毎日拝みつづけました。世間からにらまれる針のムシロの人生を、こうしてふたたび歩みはじめたのです。 参考図書:「親と子の日本史」(産経出版社) |
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