除夜の鐘はなぜゆっくり108回突くか |
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名前の専門家からみますと、名前の流行には、その時代、その社会で欠乏しているものがあらわれます。歴史上わかりやすいのが戦国時代で、誰を信じていいかわからないような時代は、織田信長、上杉謙信、武田信玄のように「信」の字が好んで使われました。 最近、「心」の字を使った名前がふえています。そうした名前自体に良い、悪いの区別はありませんが、心の字がふえているのは、「人の心が読めなくなっている」「コミュニケーションのとりかたがむつかしい」と多くの人が感じているのだ、ともいえそうです。 今の世の中では、価値観が多様化していることに加え、私たちは頭や口ばかり使い、心で感じとることが少なくなっているのかもしれません。自分の心がわかりにくくなれば、他人の心だってわからなくなります。 人間の「心」を学問的に研究した最初の人は、無意識を発見したオーストリアのフロイトだといわれます。でもじつは仏教では二千年以上まえから人の「心」が精密に研究され、「唯識」という学問体系となって古代日本にも伝えられています。 凡人がこんな奥深いことを書くのも気がひけますが、唯識では、人間の心を意識の世界から無意識の世界まで何段階にもわたって分析しています。無意識のもっとも深いところは、アーラヤビジュニャーヤとよばれ、日本では阿頼耶識(アラヤシキ)と書かれます。 アーラヤとは「蔵」のことで、ヒム(雪)とアーラヤ(蔵)を合わせて、万年雪を意味するヒマラヤという山の名にもなっています。ちなみに推理作家の新谷識(本名=荒松雄)さんのペンネームも、ご本人が歴史や宗教の専門の学者でもあり、アラヤシキとも読める字をシンタニシキと読ませたものです。 アラヤシキは無意識の世界なので自分ではつかめませんが、これこそが私たちの行動や生き方そのものと深くつながっているらしいのです。 そして、ヨガ行者でもないかぎりまったく健康ということはないように、修行もしていない私たち凡人は、精神がまったく正常ということはありません。歪んだ心、病んだ心もたくさんかかえていて、これは煩悩(ぼんのう)とよばれます。 煩悩はどこから生じるのかといえば、意外や意外、それは「頭」です。頭を使うのはリッパなことのように思われ、だれも疑問をもちません。でも私たちはヘンなことに頭を酷使すれば「心」が鈍くなり、行動や生き方が不自然になってきます。それをまた頭で合理化し、正当化する、という悪循環(スパイラル)になるのです。 たとえば記憶競争を勝ちぬいた受験秀才が、出世して高級官僚になったとしても、接待ゴルフや高収入の天下り先のことばかり考えるなら、アーラヤビジュニャーヤが病んでいるわけで、そういう人は頭を使うほど世の中の害になってしまいます。 煩の字は火と頁ですが、頁はアタマをあらわし、頭の字にも含まれます。つまり煩とはアタマがオーバーヒートすることです。 悩の左側は心臓です。右側は髪とノウを描き、脳の字にも含まれます。つまり悩とは、心とアタマが一緒に動いてしまうことです。 私たちは純粋に、素直に自分の心を感じとらず、何でも頭で処理するから、心が鈍って煩悩がふえるのでしょう。でも、頭と口ばかり動かすことにならされた私たちは、いまさら少しくらい修行をしたってそのクセは直りません。 煩悩の種類や数え方はいろいろありますが、108煩悩というのがよく知られています。 いずれ骸骨になるのに、頭の部分からたくさんの煩悩をつくり出しているのが私たちの姿だヨ、というわけです。 除夜の鐘を108回突く習慣ももちろんそこからきています。せめて仕事を全部終えた1年の最後の夜くらいは、自分の病んだ心と正直に向き合い、あらたな気持ちで新年を迎えようというものです。ですから除夜の鐘は本当は黙って静かに聞くもので、酒を飲んだり、はしゃいだりしていてはまずいのかもしれません。それにしても日本人の生活の中には、何とも奥深い文化が根を下ろしているものです。 参考図書:「わかる唯識」(岡野守也・水書房) |
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