ルンペン説客(ぜいかく)の合従(がっしょう)論 |
BC4世紀の戦国時代の中国大陸には7つの国があり、生き残りをかけて争っていました。そんな状況のなか、各国は積極的に有能な人材を求め、登用してもいました。そしてとくに強大な秦の国はほかの国にとって脅威で、強国の秦と結んでしたがうのが安全だという、いわゆる連衡(れんこう)論がどこの国にも満ち満ちていました。 そのころ、鬼谷(きこく)に師事して学んだ蘇秦(そしん)という論客は、就職活動に失敗し、放浪のはてにルンペンのようになって故郷にもどりました。兄夫婦の家にころがりこんだものの、いやがられて食事も出してもらえず、村じゅうからバカにされ、罵倒されました。 蘇秦は蔵書を積み上げ、「せっかく学問を学んでこれを生かさずにあきらめられるものか」と決意をあらたにし、さらに深く歴史や政治の研究を続けました。毎日の猛勉強は深夜におよび、眠くなると足をキリで刺し、つま先まで血が流れました。 蘇秦は、古い兵法書をもとに揣摩(しま)という読心術を開発し、また連衡論とまるで反対の発想で、各国が連合して秦の国に対抗するための政策論を作りあげ、1年後に再び遊説の旅に出ました。 ●<宰相へ> 蘇秦の精密な理論は今度は各国の王を傾聴させ、感服させることになりました。蘇秦は燕の国王から各国への遊説費を用意してもらい、趙の国王からは各国への密書をあずかり、それをたずさえて斉、楚、魏、韓の国王をつぎつぎと説得し、ついに6か国の合従(がっしょう)に成功しました。この6か国の軍事同盟、不可侵条約により秦は孤立し、どこの国に対しても手が出せなくなりました。 蘇秦は6か国の宰相を兼ねることになりましたが、これは今でいえば6つの国の外務大臣を兼任するようなものです。各国はもうムダな戦争で体力をすり減らすこともなくなったと喜び、蘇秦が各国を行き来するときは豪華な馬車が何十台も用意され、各国から莫大な財貨が差し入れされました。 あるとき道ばたから頭を地面にくっつけたまま蘇秦の馬車にはい寄って来た人がいたので、何者かと見たら兄夫婦でした。そして「どうか昔の無礼を許してほしい」とわびました。蘇秦が「昔はいばっていたのに、どうして態度を変えるのかい」と聞くと、「貴殿が身分が高くなったからです」と答えました。 蘇秦はため息をつき、「同じ人間に対して、身分や金がないと人はああまでバカにし、身分や金をもつと手のひらを返す。私にわずかの田んぼでもあったら、あんな努力はしなかったろうに」と言って、親類一同に大金をくばりました。 そのころ、同じ鬼谷に学んだ張儀(ちょうぎ)という同輩が、職にありつけず、蘇秦をたよってたずねてきました。蘇秦は「君は秦の国に行けばいい」と言って追い返し、張儀が秦の国へ旅立ったのを見届けると、それを追いかけるように張儀に大金を届けさせました。旅先で大金を受け取った張儀はすぐにその意図を察しました。そののち張儀は秦の国で仕えましたが、蘇秦の生きているうちはけっして6か国の合従を崩す策には出ませんでした。つまり蘇秦は6か国の合従を守るために、気心の知れた人物を応援して秦の国に送りこんだわけです。 皮肉なのは、6か国の合従を成功させた蘇秦は、相手国の秦と同じ名前であり、しかも姓名2字で「秦をよみがえらせる」という意味になるのです。いずれ秦が6か国の合従を崩しにかかるだろう、という恐れをテーマにした生きざまと重なります。 ●<合従の崩壊> 蘇秦は最後に、斉の国で反対派のテロリストに刺されて重体におちいります。犯人がわからなかったため、蘇秦は国王に「私が死んだら私の体をバラバラに切断して城門にかざり、蘇秦が外国のスパイであったので処刑したと発表してください。そうすれば犯人がわかります」とたのみました。蘇秦が死んだあと国王がその通りにしたら、犯人は「おれがやったんだ」と得意げにしゃべり出したので、国王はそれをつかまえて処刑しました。 蘇秦の死後、秦の張儀は合従を崩すための外交を展開しはじめ、やがて各国は秦と手を結んでしたがうことになります。戦国の世はふたたび混戦状態になり、最後に秦の始皇帝がほかの6か国を滅ぼし、全土を統一することになります。 その秦という前代未聞の大国家の出現で、中国大陸から「国境」の概念が消え、かわって中国の為政者が世界の中心だという「中華思想」が定着します。すべての異民族は「中心の華」にしたがうべきだということで、この発想による支配地の拡大で戦乱もたえなくなり、多くの民族、そして中国の民衆も苦しむことになります。いまの中華人民共和国もその発想で「ウイグルは中国だ」「チベットは中国だ」「台湾は中国だ」「尖閣諸島は中国だ」と言い続けているとしたら、まさに蘇秦の合従が崩されたことが、何千年のちの聖火リレーにまで尾をひいていたことになります。 ●合従・連衡というのは古い言葉ですが、これはいつの世にもある逆発想で、おおむね連衡論は大衆に広がりやすく、合従論は少数派です。ただ日本では幕末にイギリス、アメリカ、ロシア、フランスの勢力が入りこんできたときは、「藩同士でいがみ合っていたら日本は外国の餌食になってしまう」と心配した坂本龍馬らの働きで、犬猿の仲であった薩摩と長州が手を結びました。また薩摩軍と幕府軍が江戸を舞台に全面戦争に突入しかけたとき、勝海舟や山岡鉄舟の働きで両者が和解し、戦争は回避されました。「日本人同士が争っている場合ではない」といういわば合従論の発想で国難を乗り切ったわけです。 いまの日本では「アメリカにさからうな」とか「中国に言われるとおりにしろ」という、連衡論の発想があふれています。 |
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