両国国技館の皮肉



 いま相撲の世界で麻薬の問題がさわがれています。外国人がふえるとそういう問題もおきる、という意見もありますが、日本人力士だってかつてピストルの所持だとか、暴力事件を数々おこしていますから、あまり自慢もできません。それはともかく、そもそも相撲は国技とよばれてきたのに、外国人が多いというのも皮肉な話です。
 国技というのは、もともと意味のはっきりしない言葉です。これを「日本独自の武術や競技のことだ」とせまい範囲で考える人もいますが、そうなると剣術も空手も相撲も、似たものは外国にもあり、区分けがむつかしくなります。逆に「全国民が親しんでいればみんな国技だ」と広い範囲を考える人もいますが、多くの国に広まっている競技をわざわざ国技などとよぶ必要もないでしょう。ちなみに日本相撲協会は財団法人であり、文部省が監督官庁ですが、べつに「相撲が国技だ」などと国が正式に決めたわけでもありません。
 いずれにせよ、国技の範囲は簡単にきめられないはずですが、体力がモノを言う相撲だけを国技と呼び、そこに外国人が集まる、という皮肉なことになっているわけです。
 ではいつのまに、国技=相撲、と思われるようになったのでしょうか。
 もともと相撲は、いまのように特別な人だけがするものではなく、昔は神社の境内で村人が競い合っていた大衆的なものでした。力士がしめ縄をつけ、塩をまくのも、行司の姿が神主(かんぬし)に似ているのも、そのなごりでしょう。その意味ではたしかに相撲は、日本の歴史や風土に深く結びついたものです。
 しかし皮肉にも、いま相撲協会が行っている大相撲の発祥は、神社でなくてお寺です。
 いきさつはこうです。江戸時代に隅田川に大きな橋がかけられて大橋と名づけられましたが、これが武蔵の国と下総の国をつなぐので、みなが両国橋と呼ぶようになり、やがてこのあたりが両国と呼ばれるようになりました。
 1657年に「明暦の大火」がおきて多くの人が犠牲になり、両国橋の近くの
回向院というお寺に埋葬されました。そしてその犠牲者を供養するため、境内に相撲小屋がつくられ、興業として勧進相撲が行われ、それが定着していきました。
 やがて明治の末になって回向院の境内に相撲のための本格的な建物がつくられ、
國技館と名づけられました。ただそのとき「国技とは何なのか」というハッキリした定義はありませんでした。そんなわけで、さきに建物の名前がつけられて広まってしまったため、そのまま国技が相撲と同じような意味で使われてしまい、いまだに国技の意味がわからずじまいなのです。
 
國技館が建てられたときは、日本人が競技をする場所のつもりだったのでしょうが、皮肉にもその場所は両国という国際的な地名です。そしていまでは外人力士がどんどんふえて、大相撲はまるでオリンピックみたいな雰囲気です。
 国技館は戦後アメリカ軍に接収され、娯楽施設として使われましたが、そのときに
メモリアルホールと名前と変えられました。いまの人が聞くと葬儀会館みたいに聞こえますが、もともとは被災者の供養からスタートした建物ですから、よく合った名前ともいえます。
 その接収が1952年に解かれたあと、
国際スタジアムとして競技施設となり、最後は日本大学に譲渡されて日大講堂として使われ、1982年に解体されました。1968年に日大紛争がおきたとき、そこで何度も大々的な集会や交渉が行われてマスコミをにぎわせましたが、これだって考えようによっては国技です。
 なお接収の間に、蔵前にべつの国技館が建てられ、1950〜1984年の35年間はそこで大相撲が行われ、
蔵前国技館と呼ばれました。
 いまの国技館は1985年に新築されたもので、
両国国技館と呼ばれていますが、最後まで皮肉なことに、建てられた場所が横網という地名です(横綱ではありません。ヨコアミです)。横綱以下多くの力士が横網(よこあみ)で相撲をとっているとは、何ともまぎらわしい話です。