家の名をすてた天才    イチロー



 一般に人の名前というのは、つけた親の無意識の世界が表現され、本人が自分でつくった名前には本人の無意識の世界が表現されます。
 最近、9年連続200安打の記録を達成したイチローの選手の名前は、鈴木一朗という氏名を、本人が名字を省いて「イチロー」にして選手名を登録したわけですから、いわば親と本人の無意識の世界を合わせもつものです。
 本名の一朗は「一人で輝く」という意味の字であり、他人と比較してではなく、むしろ自己の記録を塗りかえることに挑戦しつづけるという価値観をよくあらわしてもいます。これはおそらく名づけた親から受けついだものと思われます。
 ところが一方で、世間の常識を破って、名前だけをカタカナで登録したのはどういうことでしょうか? これは意識の上では「鈴木一朗では平凡だから」ということかもしれませんが、無意識の世界では「家の影響から脱出したい」という動機があったようにもみえます。
 これはよく考えてみますと、世間の常識のほうがおかしいのです。私たちはおたがいに「名字」で呼びあっており、よほど親しくないかぎり、名前で呼ぶのは失礼になります。つまり私たちは、個人に向かって「○○家の人よ」と家の名を呼んでいるわけです。
 余談ですが、このように所属する家で人を区別するのは、儒教の発想です。仏教やイスラム教の国では、いまでも名字をもたない人がたくさんいますし、キリスト教の国でも、名字が発生したのは中国や日本よりずっと後です。そしていまでもアメリカ人やヨーロッパ人は、私たちよりはるかにひんぱんに、日常おたがいに個人の名前で呼び合っています。
 日本人だって、名字で呼び合うことにとくにメリットがあるわけではありません。大勢の中で自分だけ名前で呼ばれたらバカにされたみたいに感じますが、そういう約束のもとで皆で名前で呼びあえば、「自分を呼んでくれた」という実感がわいて、けっこう気分はいいものです。
 世の中には、「喜多郎」という作曲家や、「優香」というタレントのように、名前だけを使って活躍している人もいますが、個人に才能があれば、所属する家など関係ありませんし、家の名などいらないのです。
 イチロー選手がアメリカの大リーグへ移籍し、驚異的な成果をあげているという結果から見れば、「イチロー」という名前だけを、しかも外国人みたいにカタカナで登録したのは、「いずれ家というものから離れよう」「個人の名前を呼んでくれるアメリカのような所に行きたい」という無意識の現れではなかったか、と思えます。それは家の教えや、父親の教えを守りぬくということとは、まるでちがうことです。しかもたまたま結婚した相手も英語の堪能なアナウンサーでした。すべてが、無意識の生み出す大きな流れの中でおきていた、という印象を受けます。